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三島由紀夫を掘り下げようと思ったブログです。
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三島由紀夫(みしまゆきお) 幼少期

幼少年期 <1925(大正14)年~1940(昭和15)年>
1931年に公威は、学習院初等科に入学する。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表する。当時の綽名はアオジロ。虚弱体質で青白い顔をしていたことに由来する。しかし初等科6年の時、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという(三谷信『級友 三島由紀夫』1999年、中公文庫、pp.36)。

1937年中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。1938年には『輔仁会雑誌』に、最初の短篇小説「酸模〔すかんぽ〕-秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載された。1939年、祖母・夏子が他界。また同年第二次世界大戦が始まった。またこのころ、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会う。学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。1940年、アオジロをもじってみずから平岡青城の俳号を名乗り、『山梔〔くちなし〕』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩「凶ごと」を書いた。このころの心情は、のちに短篇「詩を書く少年」に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。このころオスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などの古典文学も愛読した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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